今日は、仰ぐと雲が美しくって、パチンコ屋さんの駐車場が一番近所で広かったので、走って行ってみて来ました。
なんだか、東に向かって皆雲達が大急ぎに視えて、わたしは眺めてるうちにワクワクして、鳥が一斉に飛び立って、ああ、夏が始まるんだ、ってなんか無性に感動してしまって一人でばらばら泣いてしまった。
駐車場にいたガードマンさんが、不思議そうな顔をして「どうされました?」と声をかけてくださいました。
――わたしは、子どもの頃からこんなことばかりあって、小さな頃は「そらがきれいで」「葉っぱが遊びに来たから」というような返答をすると、大人はみんなかわいいねぇ。みたいに笑って流していた。
別にわたしは笑かそうと思って言ったんじゃないんだけどな。。と、少し心外ながらも、そのまま自分の視え方に疑いを持つことなく、そのまますくすくと体だけでかい幼子のような性格のナニカが育った。
中学ぐらいになった。自然や空に感動して泣いてると、みんな怪訝そうな顔をしてくるようになり、「どうしたの?」と質問されて、視えたままいうと、失笑されたり、影口を言われるようになり、わたしは、そこにすごく美しい世界が視えてるんだって話がしばらくできなくなった。いじめられるからだ。
そうすることで、何が起こるかというと、世界がくすむだけ、つまんなくなるだけ。何が得かって言うと、「群から浮かない」とか、「嫌いな人に弱点を晒さずにすむ」そんなもんだった。
漫画家になろうって上京する朝のこと、一斉に町の木々たちや空たちが、出発するわたしと、一人だけ選んで連れていった友達、サボテン太郎に向かっていっぱい追い風を吹かせてくれた。
わたしはなんか、その朝の様子をいつまでも覚えてて、この絵がその視えた風景なんですが、
絶対にこっちのセカイを肯定した方がいいんだってなんか思った。だって自分を否定する人に好かれたところで、嫌いな人が寄ってくるんだ、話を合わせてて内心バカみたいだと思った。
こちらはアイフォンケースに加工して持ち歩いています。
月日は流れ、肯定や否定を繰り返して、繰り返して。ある日わたしはバジルの友達「たまごろう」を枯らしてしまった。泣いて泣いて「還ってしまった」という報告記事を書かないといけなくなった。フォロワさん皆さん心配させてしまってたので、少しでも明るい記事を…と。
もうこの記事が、わたし的に、人生の汚点というか。たまごろうの存在を笑われたくない一心で、しょうもない但し書きをつけてupしてしまった。わたしが貶めてどーすんの。
きっとこれを読んだ人は、すごく些細な事のように感じるだろうけど、ニンゲン同士だって信頼を失う時は一瞬の些細な事柄だったりする。自分への信頼、自分の世界観への肯定感なんて些細な一瞬で壊れてしまうものだ。この記事を書いてしまって、半年ほど、漫画がかけなくなってしまった。
もうわたしは、自分の視え方を一瞬だって恥ずかしいだとか、思わないようにしよう、人に言う時も予防線を張ったりして、口先だろうが貶めるのはやめようと思った
だって、恥ずかしいとかいって笑う人は、わたしの人生の責任をとったりしない。ただ、通りすがりに鼻で笑って、すぐに忘れるだけだ。わたしはわたしの視え方が、特別美しく、エキサイティングだって、誇って暮らそうって、たとえ何を言われてもって。自分が過ごす時間は、自分で責任をとるのだと、なんか思った。
***
パチンコ屋さんの駐車場で声をかけてくれたガードマンさんは、「どうされました?」と不思議そうな顔。
わたしは――
「空が、きれいで」「雲が」「東にかえっていくみたいで」「ワクワクしてしまって」と返答した。ぼさぼさのすっぴんで、きっと失笑されるだろうと思ったんだけど。
ガードマンさんは「今日は白い月が、見えますね」とふふっと笑いながら「ほらあそこ」と教えてくれた。顔を見合せて「きれいですね」と「ありがとう」ともう一回見上げて。
こっちの世界の方が絶対に楽しいし、歩いた道には白い星が咲くのだと思った。
今日書いた詩です。
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▼出発の朝の日の小さなお話▼。