ええと、まだ考えを整理出来てないんですが、これはきっと大切にしないとダメなヤツだ。と思うことがあって、メモ書きのように更新しています。メモなので多分すぐ終わります。
最近3DSを買って「とびだせどうぶつの森」にどハマりしてて、ツイッターに森垢まで作り、連日村であった楽しかったこと、感動したことなんかをつらつらと呟きまくってるんだけども、
昨日3DSをうっかり水濡れさせてしまった。しかも間抜けな事に、理由は一昨日転んで怪我したところが痛くて手が滑ったから。という、こう、居たたまれないような展開。
近くに置いてた乙嫁語りの新刊がだいぶ水を吸ってくれてたみたいで、本体をばらした中は、水は入ってませんでしたが、カルルクさんがいなければ即死だった。
とにかく急いで電源を落とし、イヤホンジャックの中の水をこよりで吸出し、ばらしたバッテリーパックとSDカードも念のため拭いて、ジップロックにシリカゲルとともに封入して、乾くまで村の無事を祈ってる最中なのだ。
カナシイのは誰だ!?
で、わたしはよく些細な事で、正直に、素直に、悲しんだり嬉しがったりする人ってよく言われるような感じなんだけど、なんか今回最初、さすがに言い出せなくて(途中で言いましたけど)
何にもないところで転んで、しかも痛くてDSに水をこぼしてしまった。とか恥ずかしいなぁとか、DS壊したかもしれなくて泣いてるだなんて、子どもみたいだ…とか、ほんとは惨めで悲しくて、助けてほしいぐらいなのに、自分の正直な感情をつい貶してしまった。
3DSは私にとって夢の世界への扉で、すごいヤツで、DS三郎って名前もつけて可愛がってるヤツだし、どうぶつの森の村の住人たちが心配でたまらない。そして体が痛いっていうのは、悲しくって当然なのに、それを自分で貶してしまった。
これがどういうことかって考えると、すごく嫌だった。だって自分がそうであることを否定するってことは、例えば目の前の人が転んで泣いてても(大人なのに恥ずかしい…)と心のどこかで馬鹿にしてしまうかもしれない。
社会的価値があるものだけ珍重して、ちいさな子が、おもちゃを壊して泣いてるのを「また買えばいいでしょ」と軽んじてしまうかもしれない。心は鏡写しなんだと思う。自分の気持ちを大切にしないと、人のカナシイ嬉しいも大切になんかできないのだと。
だからすごく嫌だった。自分から些細に見えることは、人によっては大きい事が多いのだ。この世界は小さなことが積み上がったものが、星のカタチになって光を放ってるのだから。
気に入って拾ってきた道端の石ころと、ダイアモンドの大切さを、自分以外の人に区別することは出来ないのだと思っていたのに、それを自分にやってしまった。特に物語を書く、わたしのような作風の人はやっちゃだめなことなのに。
というわけでこういう事を呟いた。
これがほんとに大切に出来てるかどうかは分からないけど、カナシイをカナシイということは、きっと肯定感につながるだろう。
「普通は」とか「大人は」とかいう呪いをかけてくる奴らはしつこいのだ。人が何と言おうと、それは問題じゃなく、自分がどう感じるかだと、何度も言い聞かせる。
まとまったので唐突に終わる。
PS/24時間後、そろそろ乾いたかなぁ…とDS三郎を、恐る恐る起動しました。
無事でした!よかった。
よかった!!!
▼この記事を書いた村長▼