先日、誕生日でした。思うことあって、簡単に書いていこうと思う。
誕生日って、すげぇよなぁって、誰かの誕生日をお祝いする時、いつも思う。「誕生日のお祝いをする」って、神さまのセーター。糸と糸。編んでほつれた偶然の先、先の先、そのまた先に用意された、きらきらと光る太陽のリボンのように感じる。
トモダチとか、もしくは交差点で浮かない顔をした人に話しかけたら、実は今日が誕生日…。なんでもいい。この特別なリボンは「この人のお祝いが出来る条件が”偶然”すべてそろった」から結んで渡すことが出来る、希少なマジックアイテムなのだなぁ。と感じる。
偶然の偶然、必然の奇跡を紡いだリボンをかけて、なにはともあれ「おめでとう!」「ありがとう!」って伝える。いつも感動してしまう。
忙しかったり、手が回せなかったり、体調が悪い時もあって、あ”~って思いながら見送る時もあるけど、もともとそのトモダチとトモダチになれたこと自体も十分奇跡なので、そうすると日常すべてが幸福な事のように感じる。
さて、わたしの話ですが。なんか上みたいに書くと、いかにもトモダチが多そうな様相ですが、人格破綻者の仙人のような面も同時に持ち合わせているので、一握りの中のそのまた一握りしか、わたしの理解者、というか、なんとか仲が続く人がいない。
なんか、頑張っても気難しさが直せない。好きな人しか好きじゃないし、真ん中がない。
なので、誕生日をうれしいなーと思ってお祝い出来そうな位置に、霊長類とかニンゲンがいようもんなら、もうほんとにわーってなってしまう。まるで砂漠の一滴の水のように感じる。
だって、普通の分布だと10000人中、その人の誕生日が特にうれしく感じない人の数が9999.0499人ぐらいの割合なのに、なんかしかも多少自分の周りにかたまってくれてるのだ、ありえない数字だ。
いつもそんなようなことをぐるぐるぐるぐる考える。どうやったらニンゲンとうまくやれるのかなぁっていつも悩む。
そんななか、今年も誕生日がやってきた。
今年は締切が誕生日当日にバッティングしてしまって、もしお祝いしていただけたとしても、対応出来ないし、失礼してしまいそうで、スケジュールが決まった8月中旬辺りに早々に諦めて、誕生日アピールをしなかったのだ。
午前中「しょうがない、しょうがない」などと言い聞かせつつも描いてたんだけど、内心(言えばよかった…)(言ったら少しはかまってもらえたかも…)だとか超情けないようなことばかりぐるぐるぐるぐる頭をめぐってたんだけど、午後になって、DMや小包が届き始めた。
うれしくって、うれしくって。覚えててくれたんだ。優しい。ありがとう。よかった。うれしい。ありがとう。よかったって、シンプルな言葉がいっぱい漏れた。
頂いた宝物達を眺めてて、なんとなく、そういうことか。と感じたことが、
――誕生日のことを言ってなかったのに、覚えてて、しかもお祝いして下さる行為というのは、存在の全肯定の贈り物なんだと、とんでもないことなんだと。
だって、めんどくさかったらスルー出来るような状態なのに、覚えてて、わたしが生まれてきたことを、ご自分の貴重な時間を割いて、お祝いしてくださっているのだ。いったい地球何個分の煌めきなんだろう。逆にわたしもやってたことなので、もしかしたらわたしも世の役に立ってるかもしれない。
このセカイにいていいんだって、思ったっていいんだって言ってもらえた気持ちだった。
一番スゴイ贈り物を、ありがとう。
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